昭和41年03月28日 朝の御理解



 信心をしていく者は、信心を進めていく者は、その為に教えを頂く。その教えは一つの信心の道を進める道標であり、同時に御教えは自分というものを見極める鏡である。ところが、その教えを道標ともせず、鏡ともしなかったら、もう教えの値打ちもなからなければ信心を頂く値打ちもない。果たして教えが自分の姿を見極める、それになっておるだろうか。自分の信心の道を進めていく、その道標になっておるだろうか。只聞いておるだけ、只見ているだけ、鏡を見ているだけ。
 自分の姿が写っても、そこを直そうとも訂正しようともせんならば、それは鏡を只見ておるというだけ、頂けるか。自分の姿が写る、その写った汚れておる所をあたらなければならん。又は、化粧していかなければならん。果たして道標になっておるだろうか。果たして鏡になっておるだろうか。どうでしょうかね。私共の実意丁寧神信心と、お道の信心で申します。実意丁寧、本当に謙虚なあの姿ぐらいみよいものはない。
 只心から只口だけ、只態度だけで謙虚に言うたりしたりしておるだけでは、こういわゆる神様に通わない。神様に通うような、実意丁寧神信心でなからにゃならん。もう私の様な者が、私のような者がと、ただいくら言うておっても思とっても、神様に通わなかったらね、それはよくそんな人がありますよね。お道の信心を頂いてある人達の中に、実意丁寧神信心、実意丁寧な、もう頭畳にすり付けるごとしてから、おじぎをしなさる。いいえ私はつまりません。
 もう私のような者はと、言葉には言う、態度にはとっておるけれども、神様に通うていない証拠に、おかげを受けてないという人がありましょうが。形じゃいかん。ところが今日、私が申します鏡を鏡として、鏡を見せて頂いて、自分の姿というものを写させて頂いてから、本当に見苦しい自分であり、汚い自分であるという事が分からせてもらい、もう信心がないなら、いよいよ自己嫌悪にでもかかりたい様な自分。だから、その自己嫌悪にかかったんでは、これはおかげの受け場がありません。
 この辺が難しい所だと思うですね。自己嫌悪にかかる程に見苦しい私であり、汚い私であるというところからです、そういう私にでも神様は、こういうおかげを下さっておるんだと、そういう私にでもおかげを下さろうとする働きが、私の周囲に一杯あるのだと、この難儀も、この困ったという事もです、その汚い私ですら救わなきゃおかんという、神様の御働きの表れだと、そこにいよいよ謙虚にならなければおられない。実意にならなければおられない。
 成程それは生れつき実意な丁寧な人もありましょうけれども、私共のように、どちらかというと横柄で横着な我侭な者は、なかなかそれが出来ません。けれども自分という者を、いよいよ見極めさせてもろうてまいります、と謙虚にならざえんのです。子供のときに、いま例えば開山期なんか参りますとね、ガマの油売りというものが来よりましたよ。さぁお立ち合い、お立ち合いというわけですよね。そしてそのガマの油の宣伝を致しましてからガマの油を売ろうという。そんなかにあんな事申しますのでしょう。
 どこどこで取れたガマを、四角四面の鏡の中に入れる。そうしますと、そのガマが自分の姿のあまりにも汚い見苦しいその姿に、へきへきするのでしょうね。それこそタラリタラリと油を流す。その油を煎じ詰めたのが、このガマの油でございますと言う様な事を子供心に覚えております。そんな事を言いよった事を、それは本当か嘘か知りませんけども、ガマが鏡を見て、自分の姿の汚いという事を、分かるか分からんか分りません、知りませんけども。
 私共がです、確かに四角四面の鏡の中に、入れているようなものですよ。信心させて頂くものは。教えの放列ですものね。椛目の教えを頂いていれば、御理解の中に浸っている様なものですもんね。いうならば四角四面の鏡の中におるようなものです。どうでしょうか、自分の見苦しい姿に、それこそタラリタラリと油が流れる様な思いはしないでしょうか。言わば自己嫌悪にでもかかる、もうほんとに一歩手前です。自己嫌悪にかかって自殺する人があります。もう自分の様な者はつまらん。もうだめだ。
 この世をはかなんで死んでいく人があります。ところが信心は、そこんところが一歩違えば、そんな事になりかねないのでございますけれども、天地の親神様はです、そういう例えば屑の子ほど可愛いい。自分の子供の中に屑の子がおれば、その屑の子が可愛いのが親心じゃ、屑の子ほど可愛いと言われるのが神様。もう私のような見苦しい汚い、もういよいよ無力なる私であるという事をです、分からしてもらう。そこにそれでも救うてもらわねばおられんのであり、助けてもらわなければ立ちいかんであり。
 そこに神様のご慈悲に神愛にお縋りさせてもらう。そこから横柄な態度や横着な態度は取らないのであり、実意丁寧にならざるをえんのである。親鸞上人様の教えておられるお言葉の中に 善人ですら助かっておるんだと仰っておる。もう悪人に於いて親である。天地の親神様て言う方はそういう方だと思う。善人ですら助かっておるじゃないか。悪人ならば、尚更助かるんだと言う表現をしておられます。
 教祖の神様の屑の子程可愛いと仰せられる、それとよく似た言葉だとこう思いますね。善人ですら、助かっておるのですから悪人なら、なおさら助かるのだという程、深いお慈悲であり深い神愛の中に、私共があるという事を信心によって、分からせて頂く時です、それから助けて頂ける、救って頂ける道が開けてくるのですよ。どうでしょうか。教えを頂いて、四角四面の鏡の中に入れられているような思いがするでしょうか。後から分からんでも、前からなっと分からんでしょうか。
 分かれば分かる程、私は自己嫌悪にかかる程の思いに、それこそガマでないですけど自分の姿自分の心の見苦しさ汚さにヘキヘキする程ですよ。そういう私でも神様が御守護下さっておる。そういう自分であっても、縋れば神様がおかげを下さっておるという事。そこにです、分からせてもらう時、おのずと私は生れてくるのが実意丁寧、いわゆる神信心ではなかろうかと思います。いかに鏡を前に立てておりましても。
 いや姿が写っておりましても、それを直そうともしないならば、惟は横着と言わなければなりませんでしょう。けれども自分の姿が全然写ってないという場合もありゃしませんでしょうか。いや丸っきり教えを本気で見ようとしない、頂こうともしないです。それじゃ自分がよかとのごと思うておる。鏡を見えよらん。教えは信心の道の道標であり、教えは自分を見極める所の鏡なのだ。その道標を一つの道標としてないから、信心の道を一つも前に前進してないじゃあないか。鏡を鏡としてないから。
 いつも謙虚な実意丁寧な姿というものすらが、お互いの姿の中にないではないか。いよいよ自分の様な見苦しいという事が分からして貰うて、本当に自分の様な者がと言う所にです、それこそ謙虚にならなければおられない。そういう私は姿にお道の信心の頂く者の姿があるとこう思うのです。どうぞ本気で一つ教えを鏡になさらなければ教えを信心の道の道標となさらなければ信心を頂いておる値打ちはない、というて自分の様なものはつまらん者はなかと言うてです。自己嫌悪にかかったら。
 もうそれは自殺行為より他にないです。それはもうおかげを自分で殺してしまう様なものです。おかげはそういう心には受付ないのです。けれども一歩前進そういう私でも悪人、善人でも助けてあるのだから悪人に於いては自分の様な悪人、自分の様な汚い者でも神のお慈悲に縋れば助けられるんだという信念、そういう確信それから信仰によって生き抜かせて頂く、信仰によって真の幸せを頂くというのは、そういう自分をギリギリ見極めて行く所から私は頂けるもんだと言う風に思う。そこに実意丁寧神信心があるのです。
   どうぞ。